平山郁夫の平和の思い(4)
(ウクライナのアリーナさんも往訪)
11/23 西条の柿庵で広大留学生達のWS
::::::::::::(R7年記録);;;;;;;:::::::::::::
1/28 修道中学高校で平山郁夫美術館との連携に向けた打合せ
2/19 修道中学先生20人への平山郁夫少年の平和の思いの説明(被爆当日の平山少年の記録、瀬戸田と尾道の方々のビデオメッセージ)
3/20-23 志賀直哉旧居の特別公開4日間。
4/12 修道中学の先生お二人が、平山郁夫美術館へ往訪打合せ。
4/28-5/19 広大留学生の平山郁夫美術館往訪
①4/28 エジプト/マルヤムさんが瀬戸田
②5/4 カンボジア/Rathaさん他3名が瀬戸田。
5/19Rathaさんインタビュー
③5/11 アフガニスタン/ザハラさん一家が瀬戸田。
5/18ザハラさんインタビュー。
(①②③の写真は私のFacebookに多数掲載)
5/25 東京被爆2世3世の子の会
5/27 東京修道 平山郁夫研究会1回
6/7 忠海ゆかた祭り カンボジア留学生12名参加
7/6 平山美術館 トークセッション(シルクロードの西から東)
R6年、中国の広大留学生2人と、広大修士課程マルヤムさん、博士課程の濱さん(濱さんはR7/3に教育学の博士)初めての平山郁夫美術館。シルクロードの西からやってきたマルヤムさん。カイロ大学、九州大学、広島大学修士。日本語がとても上手。心配りがあり、日本人のようなエジプト人。
R7年5月、撮影のために民族衣装で2度目の美術館。
平山館長がご説明。お兄さんにそっくり。1時間にわたり作品説明やお兄さんのお話をしていただきました。
マルヤムさんはエジプトでNHKのカイロ支局員。日本でも「みんなの英語」に出演。
R7年3月 マルヤムさんの「パレスチナの子どもに色鉛筆とスケッチブック」を贈るプロジェクト。Daisoへ皆で買いに行き、翌週マルヤムさんは飛行機に乗って、エジプトでボランティア活動をしているフランス人女性に渡しました。
R7年6月、現地から子どもたちが絵を描いている様子が送られてきました。
中東地域の戦火と混乱に心を痛めるマリアムさん。シルクロードの西から来たマリアムさんが願うのは「子どもたちが、いつの日にか広島のように原爆の悲惨さから立ち直る夢を持つこと」。この広島の片田舎から伝えていきたい…と願うマリアムさんの思いはいつか叶う…叶って欲しい。
平山少年は、小学校の時から絵日記を描くのを日課にしていました。修道中学3年の15歳の時に被爆し、終生 被爆の記憶と後遺症に苦しめられ、そんな時には小さい時の故郷瀬戸田の楽しい思い出と豊かな自然を思い出していました。
小学生の時に続けた絵日記。そんな絵には、子どもたちの幸せを願う思いが込められています。平山郁夫は成長し、シルクロードの国々を訪れる中で、「文化を通じた世界の平和の思い」を強く思うようになりました。
尾道市長もザハラさんとのアフガニスタンを語る会話に参加。
アフガニスタンの大地は、思っていた以上に茶褐色だった。インドのそれより、さらに濃い価だったのだ。バーミアンはカブールの西北、海抜二千六百メートルの高地にある宿場町である。玄奘三蔵はインドを訪ねる途中でこの地に立ち寄り、肩仰に驚き心は、珠に隣国より甚だし>と記しているほどだ。ここにある遺跡で、それこそ当時の砂漠を行き交う人々にとっては灯台のような存在だったのではないか、と思えるほど巨大な石仏が二体ある。いずれも岩山を掘って造り上げたもので、東の像は高さが三十八メートル、西のそれは五十三メートルもある。
この石仏を納める織に描かれた絵が法隆寺金堂の壁画の源流であると言われており、それを確かめることがバーミアンに来た第一の目的だった。この絵は、インドのアジャンタの稽壁画に似ているばかりか、ペルシャの影響も見受けられ、当時は文化の交流がいかに壮大な規模で行われたかを物語るものであった。
日本美術は決して、海に囲まれたこの狭い国土のなかからだけで生まれてきたのではない。バーミアンにある、その絵にしても、インドやペルシャの影響を受けており、そうした流れが法隆寺金堂の壁画にも影響を及ぼしている。この一例を考えてもわかるように、日本美術の源流も、それをたどっていくと幾筋もの道に分かれるのである。私は、そのことに感動した。千年単位でものを見ていくと、日本美術は実に国際的に堪えられる。その文化の渦と流れに、私はロマンを感じる。私は、これ以降、時間を半ば強引につくっては、日本美術の源流をたどる取材旅行を本格的に始めた。(平山郁夫 生かされて生きる P52)
柿庵留学生パーティーに初回の2017年から参加のポロポロさん。笑顔の素敵な大学院生です。母国でお元気ですか。
2025年4~5月、エジプト、カンボジア、アフガニスタン3国の留学生の平山郁夫美術館への3週連続の訪問。平山館長の長時間のご説明とオモテナシに感謝。平山郁夫の「文化を通じて平和の思いを世界に」の活動の一歩です。
中央に描かれた2人、これは写生旅行に出かけたときは必ず一緒に出掛けた平山夫妻。絵の右の方には写生する平山自身も。この絵には松の木が描かれているけどカンボジアには松は無い…との平山館長のお話でした。平山郁夫は幸せに絵を描いているときに茶目っ気を出すみたいです。
平山館長が大切にされていたお兄さんからの手紙。
館長室で1時間近く、お手持ちの資料と図録でお話いただきました。それにしても膨大な資料を保存。お兄様に対する思いが伝わるご説明でした。
カンボジアの人がこうやって平山館長とお話しされるのは初めてとのことでした。
平山郁夫美術館から瀬戸田港に向かう「しおまち商店街」。楽しい、昔の風情が残る商店街です。夕陽の瀬戸田港は幻想的ですごく綺麗です。是非。
帰路の尾道で遅いランチ、尾道ラーメン。
柿庵でのインタビュー。
R7/5/19 今日のインタビュー収録を終えて、恒例のはま寿司でご苦労さん会でした。
カンボジアのアンコールワットの直ぐそばに住むRathaさん。広大修士課程で学んでいます。母国では先生の先生。難関を突破してジャイカ奨学金で日本に留学。平山美術館往訪の後で時間をとり20分間のインタビュー収録に応じていただきました。カンボジアが経験したキリングフィールドの痛ましい過去。ポルポト、クメールルージュ…200万人が民族内で…。フランス語も英語も堪能なRathaさん、クメールの微笑みを浮かべながら美しい英語で淡々と語っていただきました。
両親の生きたポルポト時代は、学校で学ぶことも禁止され、文字や知識も差別を生むとの考えで禁止、結婚も相手の選択の自由は無く決められ、多くの先生やお坊さんが殺されました。アンコールワットは深いジャングルの中にあり、フランス人が発見するまで、虎や蛇がいるので近づけなかった…、私はお寺で英語を学びました。
時代にほんろうされたカンボジア、平山郁夫が修復に尽力したアンコールワット。この国から50年経ってやってきた平和なカンボジアの学生達。さそかし平山郁夫は喜んでいると思います。
楼蘭と彷徨える湖ロブノール湖
R7/6/11 中国からの広大留学生の沈さん。上海出身、重慶師範大学、広大博士課程。尾道PJの学生リーダーです。R6年秋の柿庵での平山郁夫WSを手伝ってくれました。今回、平山郁夫が修復に尽力した南京について語っていただきました。
中東を描く
昭和五十一年の暮れから翌年春にかけて、イラン、イラク、シリア、エジプト、トルコの五カ国で個展を開いたことがある。ちょうどこの年、シルクロードを主題にした連作が完成したので、当事国の人々にも見てもらってはと、お誘いを受けたのである。
日本画と中東といえば、似つかわしくない組み合わせに思われるかもしれない。一方は湿潤な土壌に生まれた画材であり、他方は太陽と砂漠に象徴される乾いた土地である。四十一年に初めてこのあたりを旅した時は、私自身、日本との差、そしてヨーロッパとも異なる特殊性に、違和感を覚えたものだ。しかし砂漠地帯といえども、そこには多くの人々が日々の暮らしを営んでいるのであり、厳しい自然も時には優しい表情を見せることがある。何度か訪れるうちに以前の違和感は消えていき、描く対象にも困らなくなった。展覧会ではさまざまな意見をいただいたが、なかで「油を買って自動車を売るばかりが日本人と思っていたが、平山は日本の文化を持ってきた」というアラブ人の言葉が、今も時々思い出される。
明治このかた、わが国は外来の文物を摂取することに忙しく、固有の文化を紹介するのは得意でなかったと言われる。事実その通りだと思うが、この議論には一つ欠けている点がある。積極的に取り入れたのはあくまで、欧米を中心とする先進文明であって、アジアや中東、アフリカといった国々に関しては、それほど熱心ではなかったのではないかということだ。中東はわかりにくいと言われる背景には、こんな事情が横たわっているような気がする。
世界最古の文明を生み出したこの地域は、以後、初期キリスト教、初期イスラム教、オスマン朝のイスラム教の影響を次々に受け、大戦前までは大国の抗争のはざまで揺れてきた。経済や政治も重要だが、こうした歴史、その中ではぐくまれてきた文化に対する理解もまた大切なように思う。(平山郁夫「時を超える旅」から)
シリア砂漠に栄えた悲劇の女王の都
中東のシリア砂漠の真中に、紀元前一世紀ごろから栄えたパルミラ王国があった。東西交流の中継貿易都市として、シルクロードに咲いた都市国家である。遠く中国の漢から、網などの商品が西域を通り、パミール高原やヒンドウクシュ山脈を越え、イラン高原を横断し、バグダッドを通過して、シリア砂漠に入って来た。それまでに、多くの民族の町々に泊まり、やっとの思いでパルミラ王国に辿り着いたであろう。東西を往来した商人たちは、キャラバン(隊商)と呼ばれ、数十頭から数百頭のらくだ隊による砂漠の旅であった。喉も渇き、倒れそうな熱秘の旅に、遠く砂塵の彼方にボーッと光輝く大列柱や凱旋門や大神殿を遠望することができた。やっとパルミラ王国にやって来たのだと、旅人たちは生き返った思いであったろう。周辺は、緑の茂る椰子の林に包まれている。砂漠の中の大オアシスである。
堂々たる凱旋門を入ると、中央通りがまっすぐにある。その両側は、列柱通りと呼ばれるように、みごとな円柱が立ち並んでいる。柱の中ほどに戦功を讃えたり、功労のあった人物の肖像彫刻が飾られてあったという。凱旋門の手前には、バール神殿の大建造物がある。高さ何十メートルはあろう神殿と、それを囲む大列柱の偉容は、まさにパルミラ王国の力を象徴している。
地上に落ちていた天井の装飾には、奈良薬師寺の薬師三尊の台座にある葡萄唐草模様の浮彫りがあった。まったく同じデザインは、遠くヘレニズム文化の西から東への道により中国を経て、奈良薬師寺まで運ばれたのだろう。二千年前のパルミラと薬師寺の台座が、一本の文化の糸によって結ばれていることを、砂漠の強烈な陽光の下で、強く語りかけていた。ここに辿り着いた隊商の人々は、旅の安寧を祈り、仕事の成就を願ったであろう。列柱通りを行く隊商の列は、キャラバンサライ(隊商宿)に泊まり、また、旅の品の補充をしながら西や東に向かったのである。
中央には、円形劇場もあった。小さな刻印のある、入場券も出土している。今も、百数十本以上の列柱が残っている。左右には官庁街をはじめ、さまざまな施設が軒を連ね、シルクロードの中継都市パルミラは、一時期を極めたことが想像される。中東で経済力を誇ったパルミラ女王ゼノビアは、ローマの威を恐れず、独立を夢見たことであろう。
ローマ軍団に攻撃され、ゼノビア女王は捕まり、金の鎖に繋がれ、ローマ市中を引き廻されたという。これを機に急速に衰えたパルミラは廃墟と化し、今日に至っている。
パルミラの遺跡の一角に、王家の谷と呼ばれる墳墓群がある。ここからパルミラ人の彫像や美しい壁画が発掘されている。広大なパルミラ遺跡を、今もシリアや日本や外国隊が発掘作業を続けている。このパルミラ遺跡から、漢代の絹織物が発見されているが、まさに、シルクロードの重要遺跡である。
薄れゆく栄華の夢
シリア砂漠のただ中で
滅びの時をきざむ遺跡・パルミラ。
繁栄をほこった女王の都も砂の中に消えようとしている。
陽が昇り、月が空にかかるたびに栄華の夢は少しずつ薄れていく。(平山郁夫「時を超える旅」から)
「群畜きゅうりょ」 各国の商人が集まるシリアアレッポのバザール
世界に救いを求めるオリエントの遺産
紀元前六世紀、イラン高原に、アケメネス王朝がキュロス大王によって建国された。
アケメネス朝は、前四世紀のダリウス大王の時代に、古代オリエントの世界で、初めて最大の帝国となった。東はインドまで、西はボスポラス海峡、南はペルシャ湾、北はカスピ海に及ぶ広大な領土であった。イラン西部のスサに都があったが、ダリウス大王は新しくアケメネス朝の象徴として、ペルセポリスを建設した。現在のイランの首都テヘランから、約一千キロ南下した地点にペルセポリスの遺跡がある。ダリウス大王は、新年の儀式をペルセポリスの王宮で行なった。属領の王たちを調見するために、造営したといわれる。岩盤の台地に宮殿は建造された。馬に乗って、幅の広いゆるやかな石段を登る階段がある。宮殿の門には、大石像の人面有翼獣身像がある。どっしりと構えている。アパダナと呼ばれる調見の間には、十八メートルの大円柱が並んでいる。天井はレバノン杉を用い、部屋は織物で飾られていた。謁見の間の石段には、貢物を捧げた属領の王たちの浮彫りが行進している。アッシリア人、ヌビア人など各民族が、さまざまな貢物と民族衣装で、儀兵と中央に向かっている。馬、牛、らくだ、ろば、羊などの動物も行進している。華やかに、ダリウス大王は属領の王から貢物を受け、儀式を行なったのであろう。王の間は鏡のように磨かれた箇所があり、建築技術の高さを思わせる。夏の暑さをしのぐ、冷房の装置を工夫した跡もある。王の間の前には、百柱の間がある。アケメネス朝の図書館や宝庫跡である。百本の列柱の礎石のみを残している。遺構内には、王宮の柱頭を飾った牡牛像や怪獣彫刻が転がっている。その中には、アケメネス朝の神、アフラマツダの像があった。紀元前四世紀に、ギリシャ・マケドニアのアレキサンダー大王は、国内を統一し、アケメネス朝の勢力を一掃すべく、戦った。
つぎつぎとダリウス軍を撃破して、中東全域を平定した。さらに、東征のためイラン高原に入り、ついにアケメネス王朝の都、ペルセポリスを占領し、ダリウス軍は潰滅した。ペルセポリスの王宮で、戦勝の祝宴が行なわれた。かつて、ギリシャ・アテネのアクロポリスがアケメネス軍によって破壊された報復に、ペルセポリスの王宮にギリシャの舞姫が火を放ったといわれる。さしものダリウス王の広大なペルセポリス
宮殿も灰燼に帰して、滅んだ。ペルセポリスの遺跡を歩くと、紀元前四世紀の歴史的事実が見られる。煙をかぶった像や焼け焦げた遺物が転がっている。博物館には、調見の間のカーテンの焦げた布片が生々しい。ペルセポリス造営には、オリエント世界の建築資材や技術者、工人などが、技術の粋を結集して建設したのだろう。今もダリウス大王の尊大な容姿が、崩れた石壁に垣間見ることができる。イラン・イラク戦争中にも、イランが日本に、ペルセポリスの修復協力を要請したことが伝えられる。人類の文化遺産が、革命や戦争のために荒廃にまかせ放置されている。ペルセポリスの遺跡は、世界に救いを求めている。
(コメント)平山郁夫は見た景色を単に描くだけではなく、歴史と文化も加えた「立体的な視野」で描いている。
「広島生変図」は、不動明王が告発したのではなく、広島は生きているんだぞと主張しているんです。あれは火の神様で、肉体は何万と滅んだけれど燃えない神様ですからね。怒りというよりむしろ鎮魂というんでしょうか。これが私の歴史的教訓で、戦争体験を生かしていく「平和の祈り」だという、画家としての一貫した主張です。これが仏教伝来であり、玄奘の道であり、シルクロードです。生涯貫いていくものです。「生変」というのは英語でいうとフェニックス(phoenix)に近い言葉です。(画文集 平和への祈り P30)
上は被爆直後の御幸橋。御幸橋は集草に通う生徒が路面電車を降りる停車場。(中国新聞)
被爆1年後に福屋デパートの屋上から南の宇品港方面を写した写真。(共同通信)
正面に見えるのは修道の校歌で歌われる秋の小藤(似島)
上の写真は、私が修道中学に入学した12歳頃の電車から見えた風景。川岸には多くのバラックが混然と立ち並んでいた。下の写真は、現在のサッカースタジアムあたりに広がっていた原爆スラム。同級生の家がこの中にあり。訪ねた時に強い印象を受けた。
平山少年15歳の8月6日
(9月上旬に父と行方不明者探しに船で広島へ) それから宇品に上陸して、修道中学に行きました。私が住んでいた寄宿舎は全壊、中学校の木造校舎も全壊しており、残ったのは天皇皇后両陛下の勅語と写真を奉納したコンクリート製の奉安殿だけでした。被爆寸前、一年生は中心部での建物強制疎開、二年生は兵器厳や火薬製造へ行っていました。四年生は三菱重工業かどこかで作業をしていたんじゃないかと思います。結局、教職員が十三人、生徒が百八十八人で合計二百一人が即死しました。被爆後には私の同期生四十一人が亡くなりました。その後、転校手続きを取り、一年間近く働いた賃金は学校の再建にと、少しでしたけれども寄付しました。(画文集 平和への祈り P25)
平山郁夫が過ごした忠海
「忠海中学×平山郁夫×高橋玄洋」 R7/6/7
修道中学3年で被爆した平山郁夫。忠海中学に転向し、叔父の薦めもあり東京芸大を目指します。忠海中学時代は勝運寺に下宿。平山の後に下宿したのが作家の高橋玄洋。平山は卒業後に絵を2枚携えて高橋玄洋を訪ね、夜を徹して語り合いました。その時に持参した絵の1枚は不動明王を描いた絵、もう一枚は故郷のミカン畑。
平山郁夫は34年間、原爆の絵を描けませんでした。やっと描いたのが広島県立美術館が所蔵する「広島生変図」。この絵の右上に描かれているのが不動明王。どんな気持ちで不動明王の絵を描いたのだろうか。平山郁夫が残した多くの本の中、忠海の勝運寺…どこかに不動明王のヒントが…。被爆当日、平山郁夫は呉線の忠海近くの駅で目覚め下車。この目の前の静かな海を渡って故郷瀬戸田へ手漕ぎ郵便戦で…。平山郁夫にとって大切な忠海。
こんな不動明王の疑問を感じていた時、忠海の立本時の加藤ご住職から「忠海ゆかた祭り」のお誘いがあり、留学生13人と参加させていただきました。平山郁夫が下宿していた勝運寺は瀬戸内海が見渡せる丘の上にあり、平田郁夫が寝起きしていたのは南西角の日当たりの良い8畳スペース。
井上ご住職から、父は平山郁夫の2年下、勉強を教えてもらっていた、祖父は瀬戸田の出身、平山郁夫の忠海時代の絵もあったが…、H4年の300年祭の際に平山先生は来られ話をされた、高橋玄洋と平山郁夫の写真の真ん中に居るのが若かりし頃の父親。居心地の良いお寺で1時間近くお話しいただきました。
ご案内の新本さんからは、忠海の「アオハタ」創業者が渡欧し学んだことや企業理念について道すがらお話いただきました。
カンボジア留学生12人はゆかたを着せていただき大喜び。忠海の皆様には温かく迎えていただき、感謝。
この正面のあたりで平山少年は寝起き。平山少年は叔父の東京芸大彫金科の教授 清水南山から「知識を身に着けること、単なる絵描きになるな」と教えられ、終生この生活を守り、多くの執筆した本を残しました。
広島西条で、①海外留学生パーティー ②子ども図書館 ③子ども果樹園…をデュアルライフでやっています。
九月初旬、広島に行方不明者を探しに行こうということになり、何家族かで船を雇って、布団や食料を乗せていったことがあるんです。私は親父と二人で乗り組みました。呉軍港の前を通ると、これが見事なまでにやられているわけですよ。「伊勢」という航空戦艦が島除に係留されていたのですが、撃沈され座礁しているんです。沖合で撃沈され、舳先が二つに割れて、ガーッと海上に突き出ている戦艦もありました。空母「天城」は呉線の沿線付近で横転しているんです。赤い船腹を見せて横たわっているんですね。それから、昔の戦艦で練習戦艦になっている「常陸」などもブスブスに撃沈されている。ある戦艦のそばに行きましたら、魚雷攻撃でちょうどふすま二枚ぐらいの穴があき、重油が流れ出している。
日本の総力をかけて軍備を進めてきたものが、一朝にして崩れたわけです。それを目の当たりにして、これはよくやられたもんだという感じでした。言葉を発することなく、撃沈された戦艦の間を機帆船でゆっくり走り抜けたんですけどね。
山田教授はお父さんが修道中学1年で被爆。
昭
和20年10月22日、がれきと化した広島の地に、南方から母国に引揚げてきた子供たちの急遽の仮住まいとして上栗氏が広島新生学園を設立し、現在広島西条の地で児童養護施設として運営が続けられています。上の写真の2番目は原爆で溶けた瓦、3番目の写真は、広島城と現在のサッカースタジアムの中間に戦後建てられた施設の全景。