平山郁夫の平和の思い(4)

(経緯)
R6年にスタートした尾道志賀直哉PJ。尾道市観光協会の理事会説明の下準備の中で、平山郁夫美術館の根葉さんの中国新聞への寄稿記事が目にとまりました。瀬戸田町の永井町長と平山郁夫のお二人について書かれた文章が素晴らしく、一度お会いしたいとお伝えしたところ、R6/6に妙宣寺の加藤住職がセット下さり、昼過ぎから夕方まで6時間近くも話が盛りあがりました。R6/7に美術館を案内して頂き。今後の企画展の計画をお聞きしました。
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6/27 尾道妙宣寺で根葉さんからお話
7/25 平山郁夫美術館で打合せ
8/28 広大マルヤムさんと濱さんが美術館

 (ウクライナのアリーナさんも往訪)

9/23 尾道浄土寺でのトークキャラバン

11/23 西条の柿庵で広大留学生達のWS

::::::::::::(R7年記録);;;;;;;:::::::::::::

1/28 修道中学高校で平山郁夫美術館との連携に向けた打合せ。2/19 修道中学先生20人への「平山郁夫少年の平和の思い」の説明(被爆当日の平山少年の記録、瀬戸田と尾道の方々のビデオメッセージと共に説明)

3/20-23 志賀直哉旧居の特別公開4日間。

4/12 修道中学の先生お二人が、平山郁夫美術館へ往訪打合せ。

4/28-5/19 広大留学生が順次平山郁夫美術館往訪  ①4/28 エジプト/マルヤムさんが瀬戸田  ②5/4 カンボジア/Rathaさん他3名が瀬戸田。 5/19Rathaさんインタビュー、③5/11 アフガニスタン/ザハラさん母子が瀬戸田。5/18ザハラさん夫婦のインタビュー。①②③の写真は私のFacebookに多数掲載)

5/25 東京被爆2世3世の子の会

5/27東京修道会(仮称) 平山郁夫研究会1回

6/7 忠海ゆかた祭り カンボジア留学生12名参加

7/6 平山美術館が企画した瀬戸田でのトークセッション(広大、中国新聞、留学生)広大の学生30名がバスで瀬戸田の平山郁夫美術館へ。

8/6 修道中学高校の原爆記念日セレモニーへ出席。

9/5-6 修道300周年記念イベント。

エジプト

R6年、中国の広大留学生2人と、広大修士課程マルヤムさん、博士課程の濱さん(濱さんはR7/3に教育学の博士)初めての平山郁夫美術館。シルクロードの西からやってきたマルヤムさん。カイロ大学、九州大学、広島大学修士。日本語がとても上手。心配りがあり、日本人のようなエジプト人。

R7年5月、撮影のために民族衣装で2度目の美術館。

平山館長がご説明。お兄さんにそっくり。1時間にわたり作品説明やお兄さんのお話をしていただきました。

エジプト、アブシンベル宮殿

ユネスコ主導の文化遺跡保護活動の代表的な例。1964-68年にアスワンハイダム工事に伴い移転。


王家の谷1977。ここから1922年にツタンカーメンの王墓も発見された。ナイル川中流の古都テーベにある。

マルヤムさんはエジプトでNHKのカイロ支局員。日本でも「みんなの英語」に出演。

R7年3月 マルヤムさんの「パレスチナの子どもに色鉛筆とスケッチブック」を贈るプロジェクト。Daisoへ皆で買いに行き、翌週マルヤムさんは飛行機に乗って、エジプトでボランティア活動をしているフランス人女性に渡しました。

R7年6月、現地から子どもたちが絵を描いている様子が送られてきました。

中東地域の戦火と混乱に心を痛めるマリアムさん。シルクロードの西から来たマリアムさんが願うのは「子どもたちが、いつの日にか広島のように原爆の悲惨さから立ち直る夢を持つこと」。この広島の片田舎から伝えていきたい…と願うマリアムさんの思いはいつか叶う…叶って欲しい。

 平山少年は、小学校の時から絵日記を描くのを日課にしていました。修道中学3年の15歳の時に被爆し、終生 被爆の記憶と後遺症に苦しめられ、そんな時には小さい時の故郷瀬戸田の楽しい思い出と豊かな自然を思い出していました。

 小学生の時に続けた絵日記。そんな絵には、子どもたちの幸せを願う思いが込められています。平山郁夫は成長し、シルクロードの国々を訪れる中で、「文化を通じた世界の平和の思い」を強く思うようになりました。

アフガニスタン🇦🇫

平谷尾道市長もザハラさんとのアフガニスタンを語る会話に参加。

文明の十字路・中央アジア

 日本に仏教が伝来したのが鉄明天皇の538年といわれる。インドでは、前5世紀に釈迦が生まれ、仏教が興ったが、日本に伝来するまで約千年の長い時間を経ている。どのような道を通ってどんな国や民族の手を経ながら伝来したのか興味を持った。源流を歩こうと思いたつ。昭和43年中央アジア旅行に出たが、アフガニスタン、ソ連領のウズベク、カザフ共和国など、どこにあるかも知らなかった。インド・ニューデリーに飛び、アフガニスタンのカーブルに着く。上空から見たアフガニスタンは高原と、険しい山と砂漠の国である。茶褐色、黄土色が不毛の地を想わせる。緑のカーペットをくっきりと切り取ったような形の島がオアシスの町や村である。首都1800mのカーブルは夏でも乾燥してすがすがしい。ターバンを頭に巻いた独特の民族衣装、端正な顔、厳しい自然の中に生きる人々の顔、皆絵になる顔だ。ごみくしたバザール(市場)は大勢の人で一杯である。埃っぽい道の両端に商品が並べてある。その中をロバが通る。呼びこむ声、商談する人々、ざわめきが狭い露地にこだまする。こんな光景は千年もの昔からも、変わらない情景であろう。生きた歴史画の活劇を見る想いに、胸がわくわくする。小さな店屋やパン屋に入って人物のスケッチをする。生まれてはじめてなるモデルに、子供のように恥ずかしがったり、喜んだりする。お茶の御馳走になったりするが、言葉は通じなくても、何か心がとけ合うようなひとときである。玄奘三蔵も越えたヒンドゥークッシュ山脈がある。山中にバーミアンの遺跡があるが、2800mの高度にある。そこに有名な大石仏があり、三蔵法師がインドに行く途中、立ち寄った時には53m、36mの大仏は金色に輝き、堂宇数百、僧侶数千と、バーミアン王国の繁栄を大唐西域記に書いてある。バーミアンはイスラム教徒の侵入や、モンゴルの軍隊の侵攻で無惨に破壊され、今は全くの廃墟と化している。顔面を削り取られた53mの大仏はその跡を如実に語る。天井に描かれた壁画はインド・アジャンタの壁画などと、法隆寺、金堂壁画の源流として名高い。このように、仏教伝来の道は、この中央アジア・アフガニスタンを通っている。

アフガニスタンの仏像や壁画を見ているとインド仏教美術を受け、さらに西のペルシア風の影響があるのが判る。壁画の一部に、三日月の宝冠をつけた菩薩が描かれている。これなど明らかにペルシアである。36mの大仏の天井にも、有翼のペガサスのような馬を描いてあるが、これも西方のものである。

 パキスタンとの国境に近い町、ジャララバード近くには、ハッダの遺跡がある。ガンダーラ様式のストッコ(塑像)による仏像は名高い。インドの仏教に西のヘレニズムが合流してガンダーラ様式の仏ができたように、いたるところに西の文化がある。中央アジアはまさしく東西、南北の文明の十字路であるといえる。昭和48年5月には作家の井上靖、考古学の江上波夫両先生とアレキサンダー大王東征の道を陸路車で、イランを通り抜けトルコまで走ったことがある。カーブルから酷暑のアフガン高原を西に向かった。古い都、ガズニーを通り、ヘラートの町を抜け、アレキサンドリアの町、カンダハールに行った。ギラギラ照りつける太陽、乾ききった砂漠を砂埃をあげて走る。ある時は突然におこる龍巻が黒い嵐となって、砂嵐は一寸の先も判らぬ闇となる。幸い、短時間で終わった。嵐が静まり、再び熱い太陽が輝いたが、この時はほっとする。氷が溶けるように廃墟が土に還る。日乾し煉瓦の建物がこのような幽気迫る廃墟となっている。水がかれたのか放棄された跡がある。ボルラの遺跡がある。高い城跡に上り、周囲を見渡すと大城郭の跡が幻のように浮かび上がる。

 第3回は昭和49年の9月にアフガンの北部へ行く。ヒンドゥークッシュを越えて、ソ連国境へ向かう。ビクトリア王朝時代の幻の都といわれるバルフやクンドゥーズを通り、アムダリア河に出た。対岸がソ連ウズベク共和国である。そこから東へ向かった。砂漠の中の道なき道を車が走る。何十条と轍の跡が砂漠にめり込んでいる様は雄大で男性的である。アムダリア河沿いの道はコクシヤ河と合流した。アイハヌムの遺跡に出た。フランス隊の発掘になるが、ギリシア文化の東の極限だという。

完全なるギリシア様式の建築形式らしい。外の文化が全く混入しない遺跡とのことであるが、何によって滅んだか全く判らない。彫りの深いアカンサスの柱頭は見事である。その図案から中央アジアの影響が見られる。ギリシア人の町として中央アジアに咲いた大理石の神殿や王宮、そこから中国の古銭が僅かに出たというが、古くから東との交渉があった証であろう。NHK出版 原山郁夫 わが心のシルクロード

留学生を平山郁夫美術館に案内してくれた広島大学OGの濱博士。

アフガニスタンの大地は、思っていた以上に茶褐色だった。インドのそれより、さらに濃い価だったのだ。バーミアンはカブールの西北、海抜二千六百メートルの高地にある宿場町である。玄奘三蔵はインドを訪ねる途中でこの地に立ち寄り、肩仰に驚き心は、珠に隣国より甚だし>と記しているほどだ。ここにある遺跡で、それこそ当時の砂漠を行き交う人々にとっては灯台のような存在だったのではないか、と思えるほど巨大な石仏が二体ある。いずれも岩山を掘って造り上げたもので、東の像は高さが三十八メートル、西のそれは五十三メートルもある。

この石仏を納める織に描かれた絵が法隆寺金堂の壁画の源流であると言われており、それを確かめることがバーミアンに来た第一の目的だった。この絵は、インドのアジャンタの稽壁画に似ているばかりか、ペルシャの影響も見受けられ、当時は文化の交流がいかに壮大な規模で行われたかを物語るものであった。

日本美術は決して、海に囲まれたこの狭い国土のなかからだけで生まれてきたのではない。バーミアンにある、その絵にしても、インドやペルシャの影響を受けており、そうした流れが法隆寺金堂の壁画にも影響を及ぼしている。この一例を考えてもわかるように、日本美術の源流も、それをたどっていくと幾筋もの道に分かれるのである。私は、そのことに感動した。千年単位でものを見ていくと、日本美術は実に国際的に堪えられる。その文化の渦と流れに、私はロマンを感じる。私は、これ以降、時間を半ば強引につくっては、日本美術の源流をたどる取材旅行を本格的に始めた。(平山郁夫 生かされて生きる P52)

1983年   桃源郷

阿育王石柱

雨のインダス河

1970年 ガンジスの夕べ

インド

 釈迦が生まれ、仏教が興ったインドは今はない。インドは哲学のように深く、掴みどころがない。回を重ねて訪れるたびに不可思議さは増し、理解が難かしい。魅力にとりつかれ、ますく判らなくなるものを持っている。昭和41年にはじめてインドに寄ったことがあるが、あの第一印象は未だ生きている。昭和43年にアフガニスタンに行く途中ニューデリーに降りた。真夏の太陽は容赦なく照りつけ、溶金炉の前に立ったようだ。そんな中を町に出る。少し郊外に出ると繁った大間が道を覆い日陰ができる。悠々と歩く牛、インドの民族衣装を身にまとった人々、どこを見ても絵のような生活とリズムがある。インド人の立派な顔、素晴しい情景だと喜んだことがある。

インドは叙事詩の国であるという。物語が生まれ、詩の中にインドの歴史は流れている。中国の史書のように、記録された歴史ではなく、語り、歌われ、象徴的に、抽象的に生き続けたのであろうか。強い陽光のもと、南方的な情念の風土であろうか。何が故に宗教が生まれたかと問う時がある。これをつめれば人類の文化への問いかけになる。人類が生きる知恵から生んだ文化である。さまざまな原理がこの中にあり、私の求める美の世界もすべてこの中にある。

そんなことを思い考えてくるのもインドである。インド亜大陸に生きる5億の人間、町に溢れ、はみ出したような貧しい人々、古代から続くカースト制の厳しさ、自由や平等を求め、人間の生きる苦悩や迷いから解脱を求めた釈迦は、古代インドでの飢えや病に苦しむ人々を見て王宮を捨てた。古代バラモン教の中でのプロテスタントとして済度し、興った仏教はやがて国際宗教として、アジア全域に泌み出すように広がった。かつてインドの悩める貧しい人々を救う宗教はアジアの人々の中に生きてきた。仏教はインド大陸で砂漠の中に消えてゆく尻なし河のように今はない。母なる地、インドの大地に還ったように仏教はヒンドゥー教の中に形を変えて生き続けているのか判らない。偉大なる宗教や哲学、詩、美術を生んだインドはどこにある。果てしなく深いインドの魅力と、現実の悩めるインドは矛盾に満ちている。歴史は聖なる河、ガンジスが悠久に流れるように止めることができない。ある時は日本文化の源流として美術に共感を覚え、ある時は民族的な異質に異和感を覚えた。だが異国の旅情を感ずるのは人間の身勝手な我儘である。現実がそこにある。これはインドだ。仏跡は数回の旅でほとんど訪れた。釈迦の生まれたルンビニーがある。荒涼たる土地に、うぶ湯をつかったという池がある。薄暮の中にぽっと西の夕日を浴びた水面が美しい。釈迦が苦業し、成道したブダガヤがある。大間の林の中に浮かぶ塔、菩提の下で座った金剛宝座がある。繁り、大きく枝や根を張った菩提間は雄々しく、美しい。釈迦が最初に説法したサルナートの鹿野苑がある。寺院の遺跡が広がる中に立派なストゥパ(塔)が今もずしんとある。サルナートの「初転法輪」の仏彫刻は優雅で美しい。インドの北、ラクノーから少し離れた処に祇園精舎がある。大樹の繁る林が続く。その中に基壇を残す祇園精舎の遺跡があるが、それは美しく咲き乱れる花の中に、一段と空しさと果てなさと寂しさを想わせる遺跡である。ボッと熱みからさす光に釈迦を描く。大寂の地クシナガラがある。降り続ける秋雨の中を訪れたが、釈迦涅槃の地は静かで淋しい。仏教は隆盛を極め多くの寺院が建てられた。仏舎利を入れたストゥパ(塔)を中心とした寺院である。サンチーの大塔、バールフット、アマラバーティなどが初期の塔として有名である。塔の周囲や門に当たる所にある彫刻など初期の仏教美術が判る。また、石窟寺院など盛んにつくられた、アジャンタや、エローラなど壮大な窟院に仏教の隆盛がしのばれる。アジャンタの壁画は法隆寺金堂壁画の源流として名高い。何時ごろから釈迦が彫刻され描かれるようになったのであろうか、何れも初期の彫刻や絵には、中心の仏は現れていない。宝輪、宝座、仏足跡、聖間、塔などが象徴されている。仏像の起源は学問的にも論争されているが、ギリシア文化の東漸から、神々の像が釈迦としての理想像に影響を与え、ガンダーラ形式の仏像が生まれた。偶然にも内陸インドでグプタ様式の仏像が同時代に出現している。東西文化融合から生まれた仏像といえる。インド国内には多くの寺院が建てられた。ナーランダの大仏教学問寺をはじめナーガルジユナコンダ、バールフット、アマラバーティの遺跡が初期仏教美術の粋として貴重である。永遠の仏世界として岩壁に窟院に彫られたおびただしい彫刻は今も生き続けている。仏教東漸の跡、多くのアジアの高僧たちが生命がけで求法したインドは永遠の国である。

平山郁夫 わが心のシルクロード NHK出版

須弥山  1982年

カンボジア

柿庵留学生パーティーに初回の2017年から参加のポロポロさん。笑顔の素敵な大学院生です。母国でお元気ですか。

2025年4~5月、エジプト、カンボジア、アフガニスタン3国の留学生の平山郁夫美術館への3週連続の訪問。平山館長の長時間のご説明とオモテナシに感謝。平山郁夫の「文化を通じて平和の思いを世界に」の活動の一歩です。

中央に描かれた2人、これは写生旅行に出かけたときは必ず一緒に出掛けた平山夫妻。絵の右の方には写生する平山自身も。この絵には松の木が描かれているけどカンボジアには松は無い…との平山館長のお話でした。平山郁夫は幸せに絵を描いているときに茶目っ気を出すみたいです。

平山館長が大切にされていたお兄さんからの手紙。

館長室で1時間近く、お手持ちの資料と図録でお話いただきました。それにしても膨大な資料を保存。お兄様に対する思いが伝わるご説明でした。

カンボジアの人がこうやって平山館長とお話しされるのは初めてとのことでした。

平山郁夫美術館から瀬戸田港に向かう「しおまち商店街」。楽しい、昔の風情が残る商店街です。夕陽の瀬戸田港は幻想的ですごく綺麗です。是非。

帰路の尾道で遅いランチ、尾道ラーメン。

柿庵でのインタビュー。

R7/5/19 今日のインタビュー収録を終えて、恒例のはま寿司でご苦労さん会でした。

 カンボジアのアンコールワットの直ぐそばに住むRathaさん。広大修士課程で学んでいます。母国では先生の先生。難関を突破してジャイカ奨学金で日本に留学。平山美術館往訪の後で時間をとり20分間のインタビュー収録に応じていただきました。カンボジアが経験したキリングフィールドの痛ましい過去。ポルポト、クメールルージュ…200万人が民族内で…。フランス語も英語も堪能なRathaさん、クメールの微笑みを浮かべながら美しい英語で淡々と語っていただきました。

 両親の生きたポルポト時代は、学校で学ぶことも禁止され、文字や知識も差別を生むとの考えで禁止、結婚も相手の選択の自由は無く決められ、多くの先生やお坊さんが殺されました。アンコールワットは深いジャングルの中にあり、フランス人が発見するまで、虎や蛇がいるので近づけなかった…、私はお寺で英語を学びました。

 時代にほんろうされたカンボジア、平山郁夫が修復に尽力したアンコールワット。この国から50年経ってやってきた平和なカンボジアの学生達。さそかし平山郁夫は喜んでいると思います。


ウクライナ🇺🇦

1979年 敦煌莫高窟 釈迦塑像

1988年 敦煌莫高窟で美知子夫人と。1994年には平山郁夫は敦煌研究基金を贈呈した。

雲崗石窟 第3靴 1991

雲崗石窟 第20靴。雲崗石窟は大同の町から少し離れたところにあり、敦煌や竜門と並び称される三大石窟の一つ。芸術的には仏教芸術の中でもスケールが大きく、造形的にも最も優れている。

龍門石窟 1991

龍門石窟石仏。農耕型の民族がつくり、ふっくら穏やかな仏像の表情。

西安市の西、1981年に大雨で半壊し、多くの経典や仏舎利が発見された。

R7/6/11 中国からの広大留学生の沈さん。上海出身、重慶師範大学、広大博士課程。尾道PJの学生リーダーです。R6年秋の柿庵での平山郁夫WSを手伝ってくれました。今回、平山郁夫が修復に尽力した南京について語っていただきました。

中国

 シルクロードへの旅に出て、西から東へ、十年もすると点から線に繋がってきた。西アジア、メソポタミア、イランなどの中近東諸国、インド、パキスタン、中央アジアなどの諸国である。ところが、肝心の中国を訪問するのには大変むずかしい。昭和50年6月、日本美術家代表団に参加して、待望の中国へ招待されることになった。名誉団長・中川一政、団長・宮川賞雄、団員は脇田和、高山辰雄、吉田善彦、中根寛、加山又造の諸先生と私である。

 初夏の北京は緑も鮮やかに繁り、さわやかである。坦々と広がる大陸は見渡すかぎり平らに遠く霞んでいる。空港から宿舎への道は沿道に街路が繁っている。二重、三重にも植えている処もある。さすが大陸のおおらかな自然は、広々とたっぷりしている。宿舎の北京飯店から昔の紫金城である故宮を遠望することができる。左手の天安門にはじまり、森の中に黄金の屋根を浮かべる幾十とある建造物は北京の景観である。

 私は昭和44年に「部耀る藤原京の大殿」という絵を描いたことがある。持統天皇が飛鳥の地に中国・長安の皇城を本格的に模して造営したといわれるものである。想像で描いたものだが、目の前にする故宮から、再び実感として思い浮かべた。北京周辺にも明の十三陵など遺跡や史跡が多い。想像もつかないような大規模な建造物に、かつての権力の強さや文化の高さが判る。その代表の一つ、八達額の万里の長城を訪ねた。延々と続く山々の尾根に蛇のように縦横に走る万里の長城は圧巻である。人類の作った造形の極限ともいうべき遺産であろう。僻地に積み上げ、築かれた長城は日本人には判らない外敵や、防塁の怨念がある。大陸での歴史の厳しさ、生きていく人間の宿命の所産でもあろうか。急斜面の坂を登りつめ、またはるか山まで連なっていく。

 美術家代表団に雲崗ーの石窟寺院を見学させてくれるという。一同、歓声をあげて除ぶ。北京から夜行列車に乗って大同に向かう。夕暮の北京を後に闇の中を列車は北に走る。速度が落ちたかと思うと万里の長城が見える山岳地帯の山をガターとあえぎながら坂を登ってゆく。朝早く雨の屋根をたたく音で目が覚めた。大同に着く。六月というのに肌寒い。まだ真暗の中を宿舎に着いた。夜行列車で疲れたので午前中休憩してから雲岡石窟寺院見学の予定であったが、少しでも長く石窟寺にいたいとの強い希望で、小休止の後小雨の降る中を雲崗石窟院寺に向かう。数百米もあろうか、数粁も続くのか、断崖が続く。その崖に石窟寺院が並んでいる。胸の高まるのを押えながら正面の門を入る。岩山の圧迫感がぐんとくる。もう、黒い穴の入口が見えて興奮する。仏教伝来の絵を描いて17年の歳月が過ぎた。仏教伝来の道の中でも圧巻の石窟寺院である。小雨の中を1秒たりとも惜しむ気持で、それぞれの窟院を歩く。薄暗い窟院の中を、じっと目をこらすと北魏風の仏がぐっと浮かび上がる。鋭く、量感に溢れた彫像である。迫力にたじろぐ思いである。風化された下部のほうは長い歴史の風霜がある。窟院壁面に埋めつくされた小仏たち、食い入るように凝視し、スケッチに筆を走らせる。彩色豊かに残っている産院もある。後世の手入れであろうが、完成された往時をそれから偲ぶ。露出している第二十洞に前田青邨先生の大同の石仏をすぐ思い出した。修理中で足場を組んでいた。本尊の顔の真正面に上がったが、間近に見ても端正で鋭い顔は生き生きと素晴しい。翌日の6月15日は私の誕生日である。雲岡で迎えた喜びはまた格別であった。

 この夏には続いて2度の中国旅行をする。黄河の流域に立つ。悠々と流れる黄河は中国の歴史を想わせる。霞む遠くの対岸、黄土を溶かした河の水、中国の文明はこの河から生まれた。

 東都、洛陽からさらに西都、長安に向かう。市内の鐘楼に立つと四方が見渡せる。真直ぐ伸びる長安大街、遠くに屋根の波の上に、大雁塔や小雁塔が見える。大慈恩寺である。かつてインドに18年の大旅行の後、経典を持ち帰り、飜経した玄奘三蔵の寺である。日本からやってきた遣唐使たちは、長安の都を訪れて驚いたに違いない。町並や大寺院の規模から、高い文化への憧れ、新しい日本への意欲など、西安の市街を歩く時、ふと私は感慨にふけった。

 昭和52年4月10日、タクラマカン砂漠上空から3度北京を訪ねた。チベットへの招待旅行である。四川省成都からチベットの首都、ラッサに飛ぶ。シルクロードの支線として秘境にあったチベット高原の貴重な10日間の旅となった。

1977  平山郁夫わが心のシルクロード NHK出版

1976年 東都洛陽白馬寺。中国に初めて仏教が伝来して初めて建立された白馬寺。空想の世界で建立当時を空想で描き上げた。

1978年 北京の秋

1976年 朦朧たる太鼓。

中東を描く

昭和五十一年の暮れから翌年春にかけて、イラン、イラク、シリア、エジプト、トルコの五カ国で個展を開いたことがある。ちょうどこの年、シルクロードを主題にした連作が完成したので、当事国の人々にも見てもらってはと、お誘いを受けたのである。

日本画と中東といえば、似つかわしくない組み合わせに思われるかもしれない。一方は湿潤な土壌に生まれた画材であり、他方は太陽と砂漠に象徴される乾いた土地である。四十一年に初めてこのあたりを旅した時は、私自身、日本との差、そしてヨーロッパとも異なる特殊性に、違和感を覚えたものだ。しかし砂漠地帯といえども、そこには多くの人々が日々の暮らしを営んでいるのであり、厳しい自然も時には優しい表情を見せることがある。何度か訪れるうちに以前の違和感は消えていき、描く対象にも困らなくなった。展覧会ではさまざまな意見をいただいたが、なかで「油を買って自動車を売るばかりが日本人と思っていたが、平山は日本の文化を持ってきた」というアラブ人の言葉が、今も時々思い出される。

明治このかた、わが国は外来の文物を摂取することに忙しく、固有の文化を紹介するのは得意でなかったと言われる。事実その通りだと思うが、この議論には一つ欠けている点がある。積極的に取り入れたのはあくまで、欧米を中心とする先進文明であって、アジアや中東、アフリカといった国々に関しては、それほど熱心ではなかったのではないかということだ。中東はわかりにくいと言われる背景には、こんな事情が横たわっているような気がする。

世界最古の文明を生み出したこの地域は、以後、初期キリスト教、初期イスラム教、オスマン朝のイスラム教の影響を次々に受け、大戦前までは大国の抗争のはざまで揺れてきた。経済や政治も重要だが、こうした歴史、その中ではぐくまれてきた文化に対する理解もまた大切なように思う。(平山郁夫「時を超える旅」から)


シリア砂漠に栄えた悲劇の女王の都

中東のシリア砂漠の真中に、紀元前一世紀ごろから栄えたパルミラ王国があった。東西交流の中継貿易都市として、シルクロードに咲いた都市国家である。遠く中国の漢から、網などの商品が西域を通り、パミール高原やヒンドウクシュ山脈を越え、イラン高原を横断し、バグダッドを通過して、シリア砂漠に入って来た。それまでに、多くの民族の町々に泊まり、やっとの思いでパルミラ王国に辿り着いたであろう。東西を往来した商人たちは、キャラバン(隊商)と呼ばれ、数十頭から数百頭のらくだ隊による砂漠の旅であった。喉も渇き、倒れそうな熱秘の旅に、遠く砂塵の彼方にボーッと光輝く大列柱や凱旋門や大神殿を遠望することができた。やっとパルミラ王国にやって来たのだと、旅人たちは生き返った思いであったろう。周辺は、緑の茂る椰子の林に包まれている。砂漠の中の大オアシスである。

堂々たる凱旋門を入ると、中央通りがまっすぐにある。その両側は、列柱通りと呼ばれるように、みごとな円柱が立ち並んでいる。柱の中ほどに戦功を讃えたり、功労のあった人物の肖像彫刻が飾られてあったという。凱旋門の手前には、バール神殿の大建造物がある。高さ何十メートルはあろう神殿と、それを囲む大列柱の偉容は、まさにパルミラ王国の力を象徴している。

地上に落ちていた天井の装飾には、奈良薬師寺の薬師三尊の台座にある葡萄唐草模様の浮彫りがあった。まったく同じデザインは、遠くヘレニズム文化の西から東への道により中国を経て、奈良薬師寺まで運ばれたのだろう。二千年前のパルミラと薬師寺の台座が、一本の文化の糸によって結ばれていることを、砂漠の強烈な陽光の下で、強く語りかけていた。ここに辿り着いた隊商の人々は、旅の安寧を祈り、仕事の成就を願ったであろう。列柱通りを行く隊商の列は、キャラバンサライ(隊商宿)に泊まり、また、旅の品の補充をしながら西や東に向かったのである。

中央には、円形劇場もあった。小さな刻印のある、入場券も出土している。今も、百数十本以上の列柱が残っている。左右には官庁街をはじめ、さまざまな施設が軒を連ね、シルクロードの中継都市パルミラは、一時期を極めたことが想像される。中東で経済力を誇ったパルミラ女王ゼノビアは、ローマの威を恐れず、独立を夢見たことであろう。

ローマ軍団に攻撃され、ゼノビア女王は捕まり、金の鎖に繋がれ、ローマ市中を引き廻されたという。これを機に急速に衰えたパルミラは廃墟と化し、今日に至っている。

パルミラの遺跡の一角に、王家の谷と呼ばれる墳墓群がある。ここからパルミラ人の彫像や美しい壁画が発掘されている。広大なパルミラ遺跡を、今もシリアや日本や外国隊が発掘作業を続けている。このパルミラ遺跡から、漢代の絹織物が発見されているが、まさに、シルクロードの重要遺跡である。

薄れゆく栄華の夢

シリア砂漠のただ中で

滅びの時をきざむ遺跡・パルミラ。

繁栄をほこった女王の都も砂の中に消えようとしている。

陽が昇り、月が空にかかるたびに栄華の夢は少しずつ薄れていく。(平山郁夫「時を超える旅」から)

「群畜きゅうりょ」 各国の商人が集まるシリアアレッポのバザール

1973年 アラビアの花嫁

シリア

 シリアはオリエント社会での文明の十字路ともいえる。南のアラビア、エジプト文明、北のアナトリア、スキタイ、東のメソポタミア、西の地中海文明の交差点でもある。シリアには古代文明の跡が無数にある。この東西南北を結ぶ通路となったシリアは古くから栄え、オリエント世界でユニークな文化を生んでいる。シリア砂漠に咲いた花、パルミラがある。東西貿易路の要所にあって栄えた都市である。周囲何10キロも砂漠が続く中にあって、突如としてパルミラが出現している。何十本もある列柱、円形劇場、ベル神殿などがずっと続いている。メソポタミアから砂漠を越えてやってきた隊商は遠くにこの町を見てほっとしたに違いない。ダマスカスへと、また、北のアレッポへ、南のヨルダンにと道は通じていた。トルコ領から流れるユーフラテス河はシリア領を通過している。その周辺は半月帯となってシリアの豊かな地である。ユーフラテスぞいにマリのシュメール文明の遺跡がある。デウラユーロポスのパルミラと同時代の遺跡があるが、仲介貿易の路にあった都市としてパルミラと同様に栄えていたが、全くの廃墟と化している。背後を流れるユーフラテス河が寂しい遺跡に立つと旅情をさらにかきたてる。ダマスカスは世界で最も古い都市である。砂漠から入った者にはほっとする安らぎがある。シリアの南東部は砂漠が多い。アンチ・レバノン山脈を越えて地中海岸に出ると風景は一変し野や山は林や緑に覆われてくる。

そんな中にもローマ時代やシロ・ヒッタイトの遺跡が無数である。ある部落はローマ時代の遺跡の中に住んでいた。今も古代ローマの円柱を利用した家や壁がある。町の道路も古代からの敷石の上を歩いている。

アルファベット文字の発生の地となったウガリットがある。古代地中海貿易港として栄えたフェニキャの港町である。ローマ皇帝をシリア領から出しているこの西アジアの地はビザンチンの遺跡も多い。古代オリエントの厚い歴史の重さの埋まるシリアはまさに東西文明の十字路のごとく輝かしい歴史に生きてきた。平山郁夫 わが心のシルクロード NHK出版

トルコ

 トルコは東洋と西洋の接点である。イスタンブールのボスポラス海峡をはさんで東のウスクダラはアジアであり、西岸はヨーロッパとなっている。そんな地理的理由からも東西文化の融合した文明を作っている。トルコの歴史は古く厚い。先史時代のヒッタイト文明にはじまる。早く銅を使ったヒッタイトは西アジアに君臨している。ボガズキョイ、ヤズルカヤの遺跡は名高い。天然の地形を利用して作られた山の都市は、海からやってきた民族に減されたという。力強い土器は量感に溢れた独特のものがある。トルコのエーゲ海岸は内陸の乾燥地帯と違って豊かな地中海性気候の肥沃な土地である。トロイの木馬で有名なトロイの遺跡がある。ギリシアのミケナイと闘ったトロイは何層にも積み重なった遺跡で、ドイツ人のシュリーマンによって発掘された。ホメロスの詩の中にうたわれている。ペルガモンの遺跡も有名である。丘の斜面に展開するギリシアの遺跡は気宇壮大であり、周囲の景観はすばらしい眺望である。今のイスタンブールはビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルである。東ローマとして長くオリエントの都であったが、ビザンチン時代の遺跡がアナトリア高原一帯にある。

 昭和41年、東京芸術大学オリエント中世学術遺跡調査団に参加してトルコに四か月出張したことがある。アンカラの東南250キロの地点にイヒララ村がある。当時は電気もない僻地の寒村であった。雪解けの水がアナトリア高原を流れその溪谷は断崖を作り、砂漠を蛇行して流れる。やがてその河しもは砂漠にすいこまれ消えてゆく尻なし河である。その断崖にビザンチン時代の教会、修道院の洞窟が無数に掘られた。奥深く修道院として修業のためであったかも判らない。あるいはアラブの侵入を避けての秘境の修道院であったかも判らない。高い所は100mはある。平均50mの岩壁にイヒララ村周辺だけでも何100という窟院である。大きいものは数層もある。小学校の講堂を思わせる大窟院もある。いくつもの部屋もある堂々たるものから、小規模の教会まで様々の形がある。装飾された立派な入口、ビザンチン風の柱や文様が彫られている。この窟院に壁画が描かれてあった。80キロ離れた所にウルギップがある。そこのギョレメの教会堂壁画は名高い。岩の先が竹の子のように、三角錐になった岩がニョキニョキと立っているが、月世界にきたような景観である。バラ色、サンゴ色、象牙色の岩肌は岩山の美の極である。そんな岩山に洞窟教会が無数にある。イヒララからさらに奥地の小さな部落に入って1ヶ月寝袋に寝ながら調査、模写したことがある。小さな洞窟で、毎日模写をしていたが、時たま訪れるロバが洞窟の入口に立っていたり、放牧された羊などが前をゆくだけであった。谷をへだて、キャンプしている村がある。峨々とした岩、大自然の中に一人いると何と人間の弱くて小さなものだと、中世の修道僧のような気分で壁画を模写したことがある。昭和48年6月、7年ぶりで訪れたイヒララ村は電気がついていた。当時小さかった子供たちは立派な少年や青年となって、とりまいた群の背後から恥ずかしそうにこちらを見ていたのが印象的であった。

 セルジュック・トルコ、オスマン・トルコとイスラム文化の中心となって中近東諸国に覇をとなえていた。東と西の文化が混じりあったイスタンブールはその跡が多くある。キリスト教建築からイスラムのモスクとなったセント・ソヒヤは典型である。丸屋根のドームと直線のミナレットは東西文化の象徴である。遠く長安やローマの都に通じていた東西の道、いつの間にかこの道を10万キロ歩んできた。檜山郁夫わが心のシルクロード NHK出版

1976年 トルコの老人

イラン・イラク・シリア

 乾燥地帯のオリエント世界に最古の文明が生まれた。文字が作られた。都市ができた。宗教が起こった。つまり、人間が生きるためである。オリエントの世界を歩いていると、なぜ人類は文化を築いたか、の素朴な答えがわかってくる。乾いた大地、厳しい自然に人間は生きることで歴史を作った跡がある。狩猟や採集で生きてきた原始人は、ある時穀物を発見した。そこで保存して、再生産する生活の農耕を発見した。穀物を保存することから土器を作ることを見つけた。さんざんの試行錯誤からである。他人との区別から思いついた文様から装飾的な絵と発展し、平面の記号から意志伝達への文字と発展する。また、豊饒への祈りや、自然の恐れから宗教などを生んだことなど、中近東を歩くと、そんな文化の源流がある。古代世界を動かした歴史の跡が、今も、様々なことを語りかけている。

バビロン王城ーイラクー

 チグリス、ユーフラテス両河地帯は人類の文明のはじまりといわれるように遺跡が多い。シュメール文化、アッシリア文化がメンポタミアの地に興亡した。古代バビロニヤもこの地に栄え、ハンムラビ法典や世界の七不思議に数えられるバビロン王城を造った。天空までえていたと旧約聖書に出るバベルの塔はバビロン王城のジグラート(塔)といわれている。遠く砂漠から望むと空中に浮かぶ緑の島がある。屋上に作った空中庭園である。動物文様の入った青い彩雅瓦で築いたイシュタン門が正面にある。入口の左右には獅子の浮彫が並ぶ。中に入ると乾燥煉瓦で築いた城壁にも動物が並ぶ。王の行列路である。栄華を誇ったバビロン王城は煉瓦の崩れた廃墟となってむなしい。アレキサンダー大王の客死したバビロンはロマンに満ちている。檜山郁夫わが心のシルクロード NHK出版

世界に救いを求めるオリエントの遺産

紀元前六世紀、イラン高原に、アケメネス王朝がキュロス大王によって建国された。

アケメネス朝は、前四世紀のダリウス大王の時代に、古代オリエントの世界で、初めて最大の帝国となった。東はインドまで、西はボスポラス海峡、南はペルシャ湾、北はカスピ海に及ぶ広大な領土であった。イラン西部のスサに都があったが、ダリウス大王は新しくアケメネス朝の象徴として、ペルセポリスを建設した。現在のイランの首都テヘランから、約一千キロ南下した地点にペルセポリスの遺跡がある。ダリウス大王は、新年の儀式をペルセポリスの王宮で行なった。属領の王たちを調見するために、造営したといわれる。岩盤の台地に宮殿は建造された。馬に乗って、幅の広いゆるやかな石段を登る階段がある。宮殿の門には、大石像の人面有翼獣身像がある。どっしりと構えている。アパダナと呼ばれる調見の間には、十八メートルの大円柱が並んでいる。天井はレバノン杉を用い、部屋は織物で飾られていた。謁見の間の石段には、貢物を捧げた属領の王たちの浮彫りが行進している。アッシリア人、ヌビア人など各民族が、さまざまな貢物と民族衣装で、儀兵と中央に向かっている。馬、牛、らくだ、ろば、羊などの動物も行進している。華やかに、ダリウス大王は属領の王から貢物を受け、儀式を行なったのであろう。王の間は鏡のように磨かれた箇所があり、建築技術の高さを思わせる。夏の暑さをしのぐ、冷房の装置を工夫した跡もある。王の間の前には、百柱の間がある。アケメネス朝の図書館や宝庫跡である。百本の列柱の礎石のみを残している。遺構内には、王宮の柱頭を飾った牡牛像や怪獣彫刻が転がっている。その中には、アケメネス朝の神、アフラマツダの像があった。紀元前四世紀に、ギリシャ・マケドニアのアレキサンダー大王は、国内を統一し、アケメネス朝の勢力を一掃すべく、戦った。

つぎつぎとダリウス軍を撃破して、中東全域を平定した。さらに、東征のためイラン高原に入り、ついにアケメネス王朝の都、ペルセポリスを占領し、ダリウス軍は潰滅した。ペルセポリスの王宮で、戦勝の祝宴が行なわれた。かつて、ギリシャ・アテネのアクロポリスがアケメネス軍によって破壊された報復に、ペルセポリスの王宮にギリシャの舞姫が火を放ったといわれる。さしものダリウス王の広大なペルセポリス

宮殿も灰燼に帰して、滅んだ。ペルセポリスの遺跡を歩くと、紀元前四世紀の歴史的事実が見られる。煙をかぶった像や焼け焦げた遺物が転がっている。博物館には、調見の間のカーテンの焦げた布片が生々しい。ペルセポリス造営には、オリエント世界の建築資材や技術者、工人などが、技術の粋を結集して建設したのだろう。今もダリウス大王の尊大な容姿が、崩れた石壁に垣間見ることができる。イラン・イラク戦争中にも、イランが日本に、ペルセポリスの修復協力を要請したことが伝えられる。人類の文化遺産が、革命や戦争のために荒廃にまかせ放置されている。ペルセポリスの遺跡は、世界に救いを求めている。

(コメント)平山郁夫は見た景色を単に描くだけではなく、歴史と文化も加えた「立体的な視野」で描いている。

アッシジの館

1966年 シエナの丘

平成8年に戦火さめやらぬサラエボを訪問。

平山少年5歳

絵で遊ぶ

記憶に残っている光景がある。今はもうないかもしれないが、当時は石板に職石という筆記用具があった。その■石で、道に、隣の家の前まではみ出すような軍艦を描く。想像して描く軍艦だから、旗も大砲も、あれも要るこれも要ると思ってつけ加えていくと、恐ろしく大きな軍艦になってしまう。軍艦だから、どうしても大砲を撃たなければならない。そこで、自分の口で「ドカーン」と叫びながら、弾の飛ぶ筋を描いて走って行くのだが、どうも距離が足りない感じがする。水柱などを描いてみてもおきまりがつかず、もう一度「ドカーン」と言って自分でそこにバッタリ倒れてみたりしていた。自分が弾のつもりなのか、命中した船のつもりか、とにかくもう軍艦になり切ったものであった。夢中になって描いている私を、日向ぼっこに出てきたお年寄りたちが、「うまいぞ」などと言ってほめてくれる。それがまた励になって、飛行機や兵隊さんが登場して、道路で夢中で絵が描けたのも、自動車が通らなかったからだし、のどかな風景であった。小学校へ行くようになって、教室で絵を描いてみるとわけのわからないなりに入学前に絵を描き散らしていた私と、学校へ来て初めて絵を描いた子とでは、すでにかなりの差がついていた。ものの形をとる線などが違っていて、先生も目をみはるのである。そういう兆候をみせたために、絵のうまい子ということになったのか、小学校の2、3年生のとき、中国新聞社が主催した少年少女絵画コンクールというのに、学校代表の一人に選ばれ、出品した。そこで思いがけず、私一人だけが、2等賞(銀賞)に入ったのである。朝礼で校長先生からおほめの言葉をいただき、全校生徒の前で大きな賞状と何か賞品を受け取った。その日は、学校が終わると家へ駆け込んで帰ったのを覚えている。何が何だかわからないけれども、子どもの頃としては、たいへんな出来事だった。小さな田舎町の子どもが、広い場所で認められたのである。私が、いつからか、自分は絵が出来るんじゃないかというひそかな自信を抱くようになったのには、こうしたコンクールでの入賞ということも、大きくはたらいていたに違いない。コンクールに出すからといって、先生に手を入れてもらうなどということもなかった。(NHK出版玄奘三蔵祈りの旅)

母について

私は、昭和5年(1930)6月15日生れ、8人兄弟の3番目で、次男である。母ヒサノは、今日でいう教育ママであった。母の後をついて歩いては、「これは何か、どういう意味か」と、しつこく聞いていた時期がある。母はごまかすことなく、きちんと納得がゆく説明をしてくれたものだ。また、学校のことになると、優先してくれた。教材や服装などをきちんとそろえるために、夜遅くまで仕事をしていたが、子供心に有り難い、済まないと思ったことであった。そんな母の熱意で、小学校六年間は無々席で通した。私は、小学校へ入学する以前から、絵を描くことに興味をもったが、それは兄や姉の影響だった。彼らが使って折れたクレヨンやパステルが、菓子箱に一杯あった。母は絵本や画材などを買い与え、好きなことをさせてくれた。また、自然に興味をもつような環境を作ってくれたともいえる。小学校の低学年のころは、基礎が大事だということで、よく読み書きなどを教えてくれた。試験の前には、質問をして急所をそれとなく注意してくれた。1年生の夏休みには、絵日記を毎日書くように用意してくれた。きちんと朝の勉強をすませないと、遊ばせてくれなかったものである。早く泳ぎに行きたいために乱暴に書いて、叱られたことが何度もあった。

中学2年、家族の写真

父について

私が今あるについては、父のことを語っておかねばならない。仏教と私との最初の縁は、父峰市によって結ばれたといえるからである。父から受けた影響がなければ、シルクロードへの旅にも、私は向かわなかったと思うからである。平山家は生口島でも1、2をあらそう旧家で、350年ほど続いている。当時は相当な財産もあったが、婿養子にきた父は一代でその財産を使い果たしてしまった。道楽で食いつぶしたのではない。「一生稼いだことがない」というのが父の自慢であった。「自分は財産持ちのところへ養子にきて、あるものが無くなるまで使う。奉仕の人生をおくるんだ」そう言いつづけて、それを見事に実践してしまったのである。人に金を貸しても返せとは言わない。保証人に平気でなる。農協の理事長をしていたが、困っている農家の人には返済をせまらなくて済む平山家のお金を貸し与えてしまう。何軒かあった借家もどんどん解放し、二束三文で売り払ったりもしていた。「人間は施しをしないと駄目だ。裸にならないとモノにならない」というのが口癖であった。「養子にきて資産があったので、そのぶん俺も鈍った」ともいっていた。聞きようによれば勝手な御託をならべているようであるが、火間、裸になれなきゃ駄目だ"というのは本当である。私が後に絶望の淵にたったとき、この父の言葉をよく思い出したものであった。まるで『桜の園』(チェーホフ作)のような家庭であった。家の財産が次々と消えていき、最後には裸になって、私が美校の助手であった頃、ついには裸を通りこして借金だらけになってしまったのである。父は早稲田大学の政経学部を出て、新聞社勤めをしていたこともあるが、学生時代から仏教やインド哲学に興味を持っていたようである。屋の禅寺に住み込んで座禅を組んだりしたこともあるらしい。隣村の私の家に婿に入ってからは、浄土宗の念仏を称えるようになった。わたしが思い出す父は、毎朝起きてお経をあげているか、座禅を組んでいる姿である。「お金なんかなくてもチマチマするな。じっとしてりゃ何とかなる」「秀麗の富士を見んと欲せば須らく時を待つべし」いずれも記憶に残る父の言葉である。じたばたするな、時がこなければ慌てても駄目だ、必ず晴れ間が来る、ということであろう。内情は、晴れ間どころか、さんざん降りの大雨で、平山家が次第に沈没しそうになっていたというのに、である。そんな切迫した状況の中でも、父はこういっていた。「やっぱり、人間は慈悲の心が大切だぞ、お前ら、慈悲の心さえ持っておれば成長するんだ。困ったときでも、その心があれば必ず危機を脱することができるからな」現実の生活が窮地に立っているのになおかつ、自らのじる哲学を曲げない徹底した生き方の父であった。困ったそぶりなどまったくみせないので、家庭内が火の車になっていたのにもかかわらず、私の中にある父の姿、そして故郷の風景はのどかで牧歌的な叙情的なものとして残っている。後年になって私が仏教を生のテーマに据えるようになったのは、この父の姿を抜きにしては考えられない。

(当時の水泳部キャプテン 田中正晴)

    同筆者が水泳部のキャプテンのとき、一級下の水泳部員の金森が『田中さん、こいつ、よう泳ぐですよ』と、級友の平山をプールに連れてきた。泳がしてみると背泳が速い。平山の生家は、まわりが海で、赤子のときから泳いでいて、小学校のとき優勝したこともあるとか。修道の水泳部はサッカー部(CP木村静人、新宅哲吾)と共に中国地区では鳴らしていた。だが、背泳が弱かった。即日、入部を許可した。平山はねばり強い性格で、へこたれず、もくもくと泳いで練習を積み重ね、いい選手に仕上がっていた。練習が終わると、母が乏しい材料で作ってくれた、7分づきの米(白米ではない)5、麦3、オカラ2のポロポロの握り飯を平山と分け合って頬ばった。食糧難時代だったので、我われはいつも空腹だった。後年、平山と会ったとき、『田中先輩、あの握り飯の有り難さは、今でも忘れていませんよ、お母さんは、お達者ですか』と、何度も握手してくれた。母は健在だったので、そのことを話すと、『あの有名な平山さんが…』と、感激して嬉しがった。しかし、戦時体制と、学徒動員に狩り出されて休部となり、水泳大会も中止、平山の出番はなかった。今でもコンビニで握り飯を買うと、平山と母を思い出す。桜は、いつかは散る。でも平山桜は、日本のためにも、あと10年、いやあと5年でいいから咲き続けさせてやりたかった。残念!平成21年12月2日。きれいな色で散ってしまった。79歳永眠。同室の須山さんは親切で、平山さんは、腹がすいているときは、絵を描いていたら、紛らわせると色鉛筆を走らせておられた。勝村さんには、勉強を教えてもらって、寄宿舎生活は快適で楽しく満足していると。学校は、国崎登中将が校長で、ぱっと敬礼するのが、お父さんと同じで格好がいいよ。また、制服の両袖に白線が一本入っているのが、修道の生徒とすぐわかり、いつも、しゃんとしておらねばいかんのよ、これは修道の誇りなんよ。窓会報75から)

 

 

平山郁夫20歳 座禅  忠海/勝運寺か

平山郁夫の生地、瀬戸田につくられた平山郁夫美術館。

結婚

 昭和30年(1955年5月7日、私は松山美知子と前田青邨画伯夫妻の媒酌により結婚し、所帯を持った。新婚の暮らしは、私がそれまで住んでいた6畳一間の木造アパート睡荘”で始まった。30世帯ほどが、共同炊事、共同トイレで仲良く暮らしていた。貧しいうえに、翌昭和31年には長男が、そして34年には長女が生まれた。家計の足しに高校の時間講師をしていた妻の負担は、一層増えることになった。しかし、彼女はけっして愚痴めいたことを言ったことがなく、常に明るかった。これが私の救いになっていたことは間違いない。「いっしょに仕事をしていれば、将来必ずどちらかが足をひっぱることになる」。前田先生の御忠告で、妻はきっぱりと筆を折り、以降現在に至るまで、私を支えてくれている。(陸荘アパートで、昭和24年から10年をすごした)  (NHK出版 玄奘三蔵祈りの旅)

長い頃悶の時間

 しかしながら、東京芸大の助手、画家、家庭人としての私の上に、広島で被爆した放射能障害の影響が長く尾を引いていた。戦争中に患った肺浸潤の跡も、身体検査の際には必ずチェックされた。さらに、長女の生まれる前の年、昭和33年頃から、私の体調がますますおかしくなった。ある日、貧血が起こり、目から火花が散るようにくらくらした。私は、来るべき時が来たと直感した。新聞を広げて読もうとしたが、字が重なり合って見えるうえに、めまいがしている。じっと座り込んだまま覚悟を決めた。慌てることもなく冷静であった。近所の医院に行き白血球の検査を頼んだ。通常、血液1立方ミリメートル中に5,000から7,000あるという白血球の数値が、私の場合は3,600だった。医師には広島での被爆のことなどは、全く話さなかった。医師は、

「よほど疲れているのでしょう。増血剤や鉄分を補給しながら栄養を身につけ、静養することです。白血球がこれより少なくなると危険ですよ」と言った。鏡をみると、自分でも気持ち悪くなるほど痩せている。裸になると肋骨が浮き出ている。何とか体重を増やさなければと思うが、食欲もなかった。怖れていた被爆の後遺症、白血病にちがいなかった。原爆投下の8月6日が近づくと、新聞や雑誌に広島被の記事が載るようになり、今年も何百人という死者の名が、名簿に加えられると報道された。狭い6畳間のアパートで過ごす夏は、暑く、寝苦しい。夢の中で広島の惨状が出てくる。火に追われ、逃げまどう人の群れ。ひとりの友人が手を伸ばして助けを求めている。もう少し手を伸ばせ、と叫んだが、どうしても届かない。だんだんと遠ざかってしまう。「おい、しっかり頑張れ!」と、大声を出した。夢の中の出来事だが、実際に私は「ぎゃっ」と悲鳴をあげていたらしい。妻は驚いて目を覚ました。夢を見て、うなされていたのである。寝汗をびっしょりかいている。心身ともに疲れている。そしてまた、原爆品が巡ってくる。これから将来どうなるのだろうか、不安がいっぱいである。芸術上の壁にも突き当たっていた。何とか突破しなければならないが、このままではジリ貧で野垂れ死にを待つしかないのだろうか。「何とか一枚でいいから、心に残る絵を描きたい」その執念はますます強くなるものの、気持ちは焦るばかりであった。もし、このままで人生の終わりを迎えれば、私が存在していたことすら無になってしまうかもしれない。一枚でも、このような被爆体験を絵にすることはできないだろうかと必死に考えた。「君は原爆を描けばいいじゃないか。実体験をもとに、なまなましい広島の図を描けば、凄いものになるよ」と、恐告してくれる友人もいた。当時60年安保闘等が間近に迫っていた。描けば注目されるに違いないというのである。しかし、原爆を告発するような、社会派的な表現では、醤口は癒えない、と私は思った。このような気持ちを乗り越え、平和を祈るようなテーマはないだろうか、と。

追いつめられて

こういう情況の中で、乳のみを抱えて製作を続けていくことが、限界に達した。妻と相談の結果、長男を生口島の実家に預けることになった。幼い子どもを実家に預け、妻に毎日働きに出るという犠牲を強い、絵を描きつづけながら、しかし、この当時の私は画業において、めざましい成果をあげられないことに悩み続けていた。春と秋の院展にはかさず出品し、入選はつづけていたが、その上になかなか行くことが出来ずにいたのである。

 昭和33年の「漁夫」(第四十三回院展出品)に至るまでの作品は、「群像」、「ひととき」、「海浜」など、いずれも瀬戸内海の風俗や漁師や農家の人びとを主テーマとして描いたものであった。当時の私にとって、生れ育った瀬戸内の自然と、そこで営まれる素朴で静かな生活こそが、私を形成する根底、私自身の根源と考えていた。平和で、安らぎあふれる故郷を芸術の出発点にしようとしていたのである。しかし、これらの作品を発表しながら、私の画家としての心は満たされていたとはいえなかった。どうしても不安感が去らないのである。その原因は、一つには、自分の原点遡行をテーマに描いているのに、一向に評価が得られないからであった。単に風俗を写し取るのではなく、もっと精神性の高いもの、自分自身が救われるような、不安感が消えるようなものを描きたい、そうしなければ私自身にとって救いがない、という追い立てられるような気持ちが、常に私の胸の中にわだかまっていたのである。しかし、どうすればそのような絵が描けるのかー。思いきった飛躍が必要なことは分かっているのであるが、どこに向かって飛べばいいのか、私には皆目、見当がつかない。思えば、この昭和33年は、私のターニング・ポイントだったようだ。白血病の宣告を受け、死に脅えながら、生活苦と、絵の悩みをかかえ、たとえば石垣の草が風に吹き飛ばされそうになりながらも必死にしがみついている、そんな状態であった。しかしながら、そんな状態の私を大転回させる、さまざまな事柄が近づいてきていた。(NHK出版 玄奘三蔵祈りの旅)

転機となったスケッチ行

翌34年の春、私は、大きな賭けに出た。もう残り少なくなった体力をひっさげて、青森県のハ甲田山をめぐるスケッチ旅行に出かけたのである。学生の実習を兼ねて毎年行われている旅行だが、山登りのような強行軍であった。スケッチをしながら、一日十何キロという距離を歩くのである。無理だからと止める医者を振り切って、参加を決意した。これが乗り越えられなかったら、人生に敗北したことになる。永らえて、どうせ負ける人生を続けても仕方がない。どうせ苦しいなら、その苦しみを味わい尽くしてやろう、そんな気持ちだった。

実際、つらい旅だった。めまいや吐き気、微しい動悸にさいなまれながら、必死に歩かなければならなかった。学生についていくだけで精いっぱいで、何度、大丈夫ですか、と声をかけられたことか。しかし、あまり休憩が長くなると、かえって私が率先して腹を上げた。そのとき見た風景は、この上もなく美しかった。爽やかな風が林を渡っていく。若葉の生い茂る五月、山々は新緑におおわれ、空気はしっとりと潤いを含んでいる。今にも消え入りそうな私の命とはまったく逆に、あたりは生命力が渦巻きながら、燃焼しているように見えた。私がスケッチ旅行から帰ると、いつも妻がスケッチブックを開いて見る。しかし、このとき、妻は何も言わなかった。後になって、一日目で駄目かと思ったけど、二日目の奥入瀬渓流を描いたスケッチは、一分の乱れもなかったと評価してくれた。私が一つの山を乗り越えたことを、彼女も感じ取っていたのであった。山の風が私の肺腑を吹き抜け、新たな生命力を植えつけてくれたにちがいない。不思議なことに東京へ戻ってからは以前より体の調子がよくなっていた。夜、寝るのが恐ろしかったことが嘘のようで、目を閉じると八甲田山の新緑の山脈が脳裏に浮かび、闘林の中から見上げた陽の光までもがよみがえってきた。

囚われからの解放

 ときに思い出す生口島の父の読経の声さえも、なにか生命への賛歌のようにも聞えるようになった。父が人生の指針にしていた仏教思想への関心が、私の内にも本格的に芽生え始めていたのである。それは、囚われることからの解放ではないか。ゴータマ・ブッダ(釈迦)は言っている。「食欲と嫌悪と迷妄を捨て、結び目を破り、命を失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め」、あるいは、「以前に経験した楽しみと苦しみとをいち、また、快さと憂いを擲って、清らかな平静と安らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め」。また、「ー他人に従属しない独立自由をめざして、星の角のようにただ独り歩め」

(『ブッダのことば』中村元訳より)これらの言葉は、合掌して願い事を頼むのではなく、自分を解放させていく自分の意志の重要さを教えようとしているのではないか。

自縄自縛を解き放ち、自由な世界へ飛び立って行く。人間解放である。たとえば死への恐怖に抵抗することをやめ、恐怖は恐怖として認めてしまう。事実は事実として、目を開いて、実態を自覚する。素直に受け入れ、そして生きるボを発見すればいいのではないか。それを自分の意志で、自分の力でやる。「しただ独り歩め」という言葉は、自らの意志をはっきりさせよ、といっているのではないか。その「角」の方角に、本当の人生が始まるのではないか。(NHK出版 玄奘三蔵祈りの旅)

1959年 仏教伝来

1960年 天山南路(夜)

1960年 天山南路(昼)

1961年 入涅槃幻想

平山美知子の父

1963年 建立金剛心図

捨宮出家図 1970年

1976年 鹿野苑の釈迦

1979年 

「広島生変図」は、不動明王が告発したのではなく、広島は生きているんだぞと主張しているんです。あれは火の神様で、肉体は何万と滅んだけれど燃えない神様ですからね。怒りというよりむしろ鎮魂というんでしょうか。これが私の歴史的教訓で、戦争体験を生かしていく「平和の祈り」だという、画家としての一貫した主張です。これが仏教伝来であり、玄奘の道であり、シルクロードです。生涯貫いていくものです。「生変」というのは英語でいうとフェニックス(phoenix)に近い言葉です。(画文集 平和への祈り P30)

世界の文化遺跡と日本を考える、巻頭

上は被爆直後の御幸橋。御幸橋は集草に通う生徒が路面電車を降りる停車場。(中国新聞)

被爆1年後に福屋デパートの屋上から南の宇品港方面を写した写真。(共同通信)

正面に見えるのは修道の校歌で歌われる秋の小藤(似島)

上の写真は、私が修道中学に入学した12歳頃の電車から見えた風景。川岸には多くのバラックが混然と立ち並んでいた。下の写真は、現在のサッカースタジアムあたりに広がっていた原爆スラム。同級生の家がこの中にあり。訪ねた時に強い印象を受けた。

平山少年15歳の8月6日

(9月上旬に父と行方不明者探しに船で広島へ) それから宇品に上陸して、修道中学に行きました。私が住んでいた寄宿舎は全壊、中学校の木造校舎も全壊しており、残ったのは天皇皇后両陛下の勅語と写真を奉納したコンクリート製の奉安殿だけでした。被爆寸前、一年生は中心部での建物強制疎開、二年生は兵器厳や火薬製造へ行っていました。四年生は三菱重工業かどこかで作業をしていたんじゃないかと思います。結局、教職員が十三人、生徒が百八十八人で合計二百一人が即死しました。被爆後には私の同期生四十一人が亡くなりました。その後、転校手続きを取り、一年間近く働いた賃金は学校の再建にと、少しでしたけれども寄付しました。(画文集 平和への祈り P25)

因島 岡野壮一郎君  

   (修道中学で平山郁夫と同室だった水泳部キャプテンの田中正晴氏が修道会報に書き残した。因島は檜山郁夫が生まれた生地島とは隣の島。白滝山荘の矢田部氏は小学校の同級生)

 昭和20年8月4日(原爆の2日前)、学校へ県庁から電話が入った。8月6日建物疎開の生徒動員(中学2年300人)全員を出すような命令だった。学年担任の秋山元英先生(物理、化学)は、部下の松石義郎先生(物理、化学)と諮り、どうしても大事な学校行事があるので、半数しか出せないと(値切って)押し問答の末、やっと了解を得た。秋山先生は、数日前から胸騒ぎがして眠れなかった。それが悪いことに現実となって8月6日の原爆の惨劇となり、雑魚場町の建物疎開で貴重な150名の生徒の命が失われてしまった。しかし、秋山先生の好判断で半数の150名の生徒は、登校していたので全員助かった。何人かは負傷したが。人間の運命とは紙一重なのだ。(登校し生き残った同級生永谷道孝氏談)。

 岡野は雑魚場町で被爆し瓦礫の下からはいでて、半袖だったので火傷して、腕の皮膚が垂れ下がり、頭からも出血していて、ふらふらになって、いったい何が起こったのか考える力がなかった。火焔が襲ってきたので痛む足をひこずり、杖をついて長い時間がかかって寄宿舎へやっとたどり着いた。寄宿舎はペッシャンコにつぶれていたので敬道館で寝た。喉がカラカラに渇いたので水が欲しいと思ったが水道が出ない。足が痛んで立てない。匍匐前進してプールにやっとたどり着き、水をがぶ飲みした。

プールの芝生で寝た。日が暮れると血の臭いを嗅ぎつけた蚊の大群が襲って来て、また敬道館へもどりピアノの下へもぐりこんだ。そのとき敬道館のまわりに白線一本の生徒が数人いて、水、水と叫んでいた。長い暑い1日が過ぎて夜が明け8月7日の朝は静かな朝だった。岡野はもうろうとしながら母を呼んだ。水、水と訴えた。いつまでたっても水は届かなかった。日が昇ると暑い太陽が傷口にしみた。すると意識がもどり水がむしょうに欲しくなってプールに行こうとしたが、体が全然動かず、弱っていくのが自分でもわかった。そうして昏睡状態になりながらまだ生きていた。ジョン万次郎が漂流して死にそうになった気持ちがわかり、俺も死ぬかもしれんと思い、いや万次郎は助けられたのだ、俺も誰か救助に来てくれるかもしれん。街は丸焼けになっているので、誰もおらん、そんなことは駄目かー…。水、水、へこたれるな、頑張れ。太陽が熱い。意識が混濁したとき…。『壮一郎、壮一郎』と呼ぶ声が聞こえた。母の声だ。俺は、いよいよ死ぬなー。死ぬってこんなのかー。と思ったら母の顔が大きく目に入った。そんなことはない、母は因島だ。俺の頭が狂っているのだ…。そのとき、飲みたい水が、ゴボゴボと喉を通った。薄目をあけると本当に母がいた。「えっと探したんよ、よう生きておったね、私が助ける。気をしっかり持って!」涙をポロポロ流して、その涙が壮一郎の頬に流れ落ちて熱く感じた。母は近所で大八車を買い、壮一郎を乗せて広島駅に急いだ。街は煙をあげて燃えているし、炎天下で汗がふきでて喉が渇く。壮一郎には水筒の水を飲ませ、母はボウフラのわいた防火用水の水を飲んでひたすら駅をめざした。広島駅は大勢の人で混雑し、座り倒れ寝て足の踏み場もないほど負傷者があふれていた。汽車はなかなか来ない。何も遮蔽物のない大八車の上で壮一郎は死にかけていた。やっとホームに入ってきた汽車に、人々は群がって乗った。母は壮一郎を背負い火事場の馬鹿力で汽車に乗せ、デッキの端だったが寝かせることもでき、そこは日陰になり走れば風で涼がとれた。母は妊娠5ヵ月の身重の体だった。どこに、そんな力や勇気があったのだろう。子を思う母性愛、母親の必死の愛、慈母神の心が力となった。尾道駅からポンポン船を雇い札束を払った。(須山正実談、最上級生の須山徹さんの奥さん。奇しくも壮一郎の妹さんと同級生で仲良しだった)長い苦しい一日を戦って、やっと帰った母子は倒れるように2人並んで寝た。壮一郎は意識ははっきりしており、学校や級友のことをしきりに心配していたが、8月12日、容態が急変して皆に見とられて帰らぬ人となった。安らかな死に顔だった。祖母は遺体が収容できただけでも親孝行なことだと号泣した。母は、その後子供を生んだが、原爆の放射能を浴びたのか生まれて3ヵ月夭折した。岡野家の歴史では、今回のことは大事件で壮絶な戦いであり、壮一郎は国家のため戦死したと思った。このお母さんはすごい人だと筆者は深く敬意を表する。桜は散っても来年はまた咲く。だが、壮一郎桜は15歳で散り終わるなんて、なんとむごいことか、泣けて泣けてしかたない。この文を鎮魂歌として捧げる。この4人は一生縣命生きた。へこたれずに生きた。このことを生き残ったものが伝える義務があると老骨に鞭打ち筆を走らせた。82歳。疲れた。

平山郁夫が過ごした忠海

「忠海中学×平山郁夫×高橋玄洋」  R7/6/7 

 修道中学3年で被爆した平山郁夫。忠海中学に転向し、叔父の薦めもあり東京芸大を目指します。忠海中学時代は勝運寺に下宿。平山の後に下宿したのが作家の高橋玄洋。平山は卒業後に絵を2枚携えて高橋玄洋を訪ね、夜を徹して語り合いました。その時に持参した絵の1枚は不動明王を描いた絵、もう一枚は故郷のミカン畑。

 平山郁夫は34年間、原爆の絵を描けませんでした。やっと描いたのが広島県立美術館が所蔵する「広島生変図」。この絵の右上に描かれているのが不動明王。どんな気持ちで不動明王の絵を描いたのだろうか。平山郁夫が残した多くの本の中、忠海の勝運寺…どこかに不動明王のヒントが…。被爆当日、平山郁夫は呉線の忠海近くの駅で目覚め下車。この目の前の静かな海を渡って故郷瀬戸田へ手漕ぎ郵便戦で…。平山郁夫にとって大切な忠海。


 こんな不動明王の疑問を感じていた時、忠海の立本時の加藤ご住職から「忠海ゆかた祭り」のお誘いがあり、留学生13人と参加させていただきました。平山郁夫が下宿していた勝運寺は瀬戸内海が見渡せる丘の上にあり、平田郁夫が寝起きしていたのは南西角の日当たりの良い8畳スペース。

 井上ご住職から、父は平山郁夫の2年下、勉強を教えてもらっていた、祖父は瀬戸田の出身、平山郁夫の忠海時代の絵もあったが…、H4年の300年祭の際に平山先生は来られ話をされた、高橋玄洋と平山郁夫の写真の真ん中に居るのが若かりし頃の父親。居心地の良いお寺で1時間近くお話しいただきました。

  ご案内の新本さんからは、忠海の「アオハタ」創業者が渡欧し学んだことや企業理念について道すがらお話いただきました。

 カンボジア留学生12人はゆかたを着せていただき大喜び。忠海の皆様には温かく迎えていただき、感謝。

  

 

この正面のあたりで平山少年は寝起き。平山少年は叔父の東京芸大彫金科の教授 清水南山から「知識を身に着けること、単なる絵描きになるな」と教えられ、終生この生活を守り、多くの執筆した本を残しました。

広島西条で、①海外留学生パーティー ②子ども図書館 ③子ども果樹園…をデュアルライフでやっています。

九月初旬、広島に行方不明者を探しに行こうということになり、何家族かで船を雇って、布団や食料を乗せていったことがあるんです。私は親父と二人で乗り組みました。呉軍港の前を通ると、これが見事なまでにやられているわけですよ。「伊勢」という航空戦艦が島除に係留されていたのですが、撃沈され座礁しているんです。沖合で撃沈され、舳先が二つに割れて、ガーッと海上に突き出ている戦艦もありました。空母「天城」は呉線の沿線付近で横転しているんです。赤い船腹を見せて横たわっているんですね。それから、昔の戦艦で練習戦艦になっている「常陸」などもブスブスに撃沈されている。ある戦艦のそばに行きましたら、魚雷攻撃でちょうどふすま二枚ぐらいの穴があき、重油が流れ出している。

日本の総力をかけて軍備を進めてきたものが、一朝にして崩れたわけです。それを目の当たりにして、これはよくやられたもんだという感じでした。言葉を発することなく、撃沈された戦艦の間を機帆船でゆっくり走り抜けたんですけどね。

1969年 飛鳥川

    世界の文化遺産と日本を考える(財団法人 文化財保護・芸術研究助成財団2008/10)

山田教授はお父さんが修道中学1年で被爆。

(探求)中学高校時代からの人材育成

広島を語り世界に発信する人材を大学入学前に育てることは、意義深いのではないかと思う。特に、平山郁夫の母校の修道中学高校から長期的に育っていくプログラムができることも期待したい。

(探求)奥島総長と平山郁夫の思い

この文章に書かれている「ぼくの思ったようには伝わらなかった」とは何を意味するのだろうか?

和20年10月22日、がれきと化した広島の地に、南方から母国に引揚げてきた子供たちの急遽の仮住まいとして上栗氏が広島新生学園を設立し、現在広島西条の地で児童養護施設として運営が続けられています。上の写真の2番目は原爆で溶けた瓦、3番目の写真は、広島城と現在のサッカースタジアムの中間に戦後建てられた施設の全景。

この本の政策統括 川良浩和 1947ー

 早大1文卒、NHKスペシャルなど200本のドキュメンタリーを制作。新聞協会賞、文化庁芸術祭賞、放送文化基金賞等。退職後にノンフィクション作家。「絆ー高校生とヒロシマ」1987、「ヒロシマ花一輪物語」

NHK出版::::::::::::::::::::::わが心のシルクロード1977年刊         平山郁夫

 日本の文化は、仏教伝来に始まる。前五世紀にインドで釈迦が誕生した。仏教がおこり、その教えはインドから中央アジア、東アジアに広がった。野を越え山を越え、砂漠を渡り広がった。大変な道程と時間がかかり、これを伝えるには、多くの国々や人々の手を経ている。仏教を絵にするには、解釈の仕方で文学的でもあり、内容が豊富である。時間や空間を超越した、非画一的宇宙観のようなものがある。心に潜む日本文化の源流の要素もある。象徴的であり、抽象の世界でもあり得る。絵画的には自由な空間となり、勝手な造形や色彩の世界をつくることも可能である。そんなことから、私は現実の壁を越えることができ、新しい世界を見つけ「仏教伝来」の第一作を描いた。幻想の中で、シルクロードのロマンを仏教に求め、これからシルクロードへと結ばれていった。最初から必ずしもシルクロードを計画的に歩こうと進んだのではない。やっている間にいろいろなことが続出し、旅を重ねていった。広大なユーラシア大陸には壮大なロマンがあり、点がやがて線となっていく。どんな文化をみても、それだけが単独で生まれるものではない。仏教の起源をみてもわかるように、インドの仏教に西からのヘレニズム文化が融合し、ガンダーラ仏のすばらしい美術が生まれた。インドにはペルシアの影響がある、さらに、メソポタミア文化の要素がある、などと、歩いているうちに、オリエント世界から文明の起源を思う。長い時間と人類によって織りなされる文化は、一朝にしてならない。文明の十字路である中央アジアには、そのような跡が顕著である。いわば、東西文化交流の跡である。

 「シルクロード」という美しい名は、ドイツ人、リヒトホーエンの命名である。厳密には西域(新疆ウィグル自治区)をいう。中国からみたシルクロードは、長安の都から絹や文物の出発点であり、コンロンの玉や汗血馬などを入れた道である。日本人のシルクロードへの憧れや夢は、大きく東西にのばして、西はローマに、東は正倉院に飛躍させている。シルクロードは、これまでになかった新しい歴史観や価値観をそこに見出している。それは、日本人の主観による一つの大きい文化の道でもあり世界でもある。また、新しい文化、文明の取り方でもあり、日本を中心とした構造で考えだした一種のユニークなオリジナリティがそこにある。私の十数回の旅は、点から線につながった。長安の都に立った感動、中央アジアのバーミアンでの東西文化の交流の驚き。ペルセポリスの巨大な遺跡での感慨。バビロン王城の栄華の跡、シリア砂漠に咲いた石の華パルミラの列柱。アナトリアに散在する古代オリエント世界の数々がスケッチにある。かつて、鈴の音を響かせて往来した隊商が目に浮かぶ。この道は遠く西はローマに通じ、東は長安に通じているかと思うとき、シルクロード幻想が一本の道となって心の中に生きている。

美知子夫人の取材記録。